<唱題プラクティスとは?>

瞑想には、大別してふたつのタイプがあります。

一つは、サマタ(止: 集中型の瞑想)、もう一つは、ヴィパッサナー(観 :気づきの瞑想)です。

いずれもそれぞれ状況に応じて有効なのです。たとえば、中国の天台大師の一門は、上の「止」と「観」をその時々で組み合わせながら瞑想を深めていました。

唱題プラクティスは、以上ふたつの要素が融合して、しかも以下のような特徴があります。(呼吸法や座法も含まれます)

1.簡単でだれにでもできる。
 
どんなに素晴らしい瞑想でも、あまりに複雑なものでは専門家ならともかく他に仕事などを持っている方々には、適しません。唱題プラクティスの簡単さは、単に数文字の言葉を繰り返すというだけでなく、ヴィパッサナーのように特別にそこに意をおかなくとも、自然に心の観察できるようになるということでもあります。

2.素早く、深い感動と効果をもたらす。
 
その成果を得るのにあまりに時間のかかるものは、やはり現代人一般には適合しません。何もしないのに棚から牡丹餅というのもあり得ないことですが、目まぐるしく変化するストレス社会にあっては出来るだけ速やかにしかも深い内容が実感できるものが求められます。まず、安心、活力、喜びが得られ、人生に迷いがなくなってくるのが最初です。

3.内面を深く探求できるのみならず、有限の自分が、仏陀の無限の意識につながりながら、時空を超えて直に仏陀の説法を心身全体で実感できる。
これは、難しいと思われるかも知れませんが、もっとも大切なことは信です。特に自分を信じることが何より重要です。肉体上の仏陀なき時代を生きるわれわれが、時空を超えて仏陀に出会い指導していただきながら”たましいの成長”をとげてゆけるということはありがたいことです。

4.以上のことが、実生活にいかされる。
プラクティスをしたらそれで終わりではいけません。プラクティスによって得られた清らかな心、前向きな発想、想像力、活力などが日常の生活にいかされてこそ真に実践していると言えます。そのことが自然体でできるようになってくるのが、唱題プラクティスの何よりの特徴です

☆「プラクティス=実践」という言葉について
「南無妙法蓮華経」と唱えることを「唱題行」あるいは「唱題修行」などと言います。鎌倉時代に日蓮聖人により提唱されたこの修行法は、七百数十年を経た今日ひろく日本に知れ渡っています。

しかし、「繰り返し唱えさえすれば良いんだ」とか「お経の意味をよく知らない信者は、この簡単なお題目を唱えていれば良いんだ」などと、とんでもない誤解や形骸化の問題があります。あるいは「お題目を唱えさえすれば何でも叶う」と私たちの欲望を満たすために南無妙法蓮華経があるかのように言う人もあります。さらに僧侶方の中からさえ時折「繰り返し唱えることが苦痛でたまらない」と言うのを聞くことがあります。しかし必ずしも本人を責められないものがあります。なぜなら、長い歳月を経て形骸化し、ほんとうの目的とそこに至る道筋を失い迷走し、あまりに形式(見かけ)にとらわれる結果、その素晴らしさ、楽しみや喜びに触れることができなくなってしまっているのです。

私は、そうした混迷を超えて仏陀や日蓮聖人のような先師の方の御こころにそうお題目を追求し伝え皆様にその素晴らしさを実感していただきたいと念願し、その違いを意識していただくためにあえて「唱題プラクティス」という言葉を用いることにしました。

私が、カンボジア、タイ、チベットの僧侶とのお付き合いがあり、また二年間弱カンボジアに滞在していたことがあり、「行」や「修行」のことを彼らと「プラクティス=実践」と言い合っていたことも、帰国後もそのまま「唱題プラクティス」と言う理由です。